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2.上戸……①美里町中埣

投稿日:2024.11.11

「上戸」というと女優の名を思い浮かべそうであるが、ここでは「うえと」とは読まず「あがと」と読み、苗字ではなく地名である。同じ文字で「うえど」 と読む地名は石川県にあり、「うわと・じょうご・あがつと」という地名も関東や九州にある。

   

明治時代の「宮城県各村あざな調書」には、仙台市秋保・栗原市志波姫・山元町浅生原・美里町中埣・大崎市鹿島台に「上戸あがと」の地名があり、村田町足立・柴田町上川名・登米市南方には「上ケ戸あがと」の地名が記されている。

   

この地名が生まれた時代はかなり古く、地名が付けられた当時、そこには必ず水の流れ(川)や沼などがあったことを伝えている。地名とは不思議なもので、その地名を見たり聞いたりするだけで、名付けられた地の地形や地質を知ることができる。

   

今回は、美里町中埣と大崎市鹿島台平渡の「上戸」をとりあげたいと思う。いずれも現在この地名の近くには、水の流れや沼などは存在していない。

   

しかし昔は、あった筈である。なぜなら、「アガト」の地名解は、「舟からあがる処」を意味しているからである。舟を使用するためには当然水の流れや沼などが必要である。

では、どうすれば地名が名付けられた当時の地形を知ることができるだろうか。先ずは、国土地理院地図からその位置を確認してみましょう。(図1)

 

中埣の上戸の地は、エリアの主道路である県道19号に面しており、東側には水田が広がっているが、近年はその水田地帯に大きなファームが築かれて、これまでとは違った景観になっている。

 

ここに川が流れていたことを証明してくれる謎解きの一つが、「中埣なかぞね」などの「ソネ」地名である。江合川付近には「李埣すもぞね・かみぞね上埣かみぞね・鶴ケ埣・横埣」などたくさんのソネ地名が並んでいる。もちろん他の街にも見られ、宮城県北の人たちには馴染みの地名である。

   

この地名は、川の氾濫などにより生まれた自然堤防の地に多く付けられ、「川が運んできた石くれが多く堆積した瘦せ地」だったことを意味している。そのため周りと比べるとほんの少し標高が高いのが特徴である。地質が安定してくると人が住むことができるようになっていった。

   

図1)美里町中埣上戸(国土地理院地図に一部加筆)

まだ昭和だった頃、地元の方が「すぐ傍の谷地中と比べると、洪水になりにくい」と話していた。現在でも大きなかまえの旧家が多いことから、ご先祖様は江戸時代の新田開発が盛んに行われた頃から住み始めたお宅が多いのかもしれない。

   

さらにそれを解く鍵は、ソネの地名と共に地図に記された田尻川・美女川・江合川にある。

   

アガトの地名が付けられた時間は古代まで遡ることができるかもしれない。そのような時代には、これら三つの川は現在のように改修もされず、もちろん土手もない。流路が一定していないため大雨の際は水の勢いのままに流れ、自在に流路を変えて幾筋もの水の道を作っていた。当然氾濫も多くあり、そのため付近には沼や湿地が広がっていたことであろう。さらに土地の高低をみると、田尻方向から中埣へと緩やかな傾斜地になっていることも水の道の存在を裏付けているといえよう。

   

自然災害が生み出した土地が「ソネ」であり、そこで暮らすための生活手段として舟を利用していたのであろう。そこで「上戸あがと」の地名が生まれた。

   

「アガト」のそばには「若狭わかさ」 の地名があり、熊野神社が祀られている。「ワカサ」とは、アイヌ語で「ワッカ・サ wakka·sa 水が広がる地、清水などのある地」と解ける。あるいは、「ワッカ・サク・ナイ wakka·sak·nay (金気水のため)飲み水の無い処」とも解ける。また、熊野神社の多くは、古い時代に川を利用して運ばれて来ているらしい。

   

もう一度地図を見ると、「南高城」という地名がある。「タカギ」とは他と比べると土地が「高い処」という意味の地名で、ここも舟を使用すれば生活できる場所であったであろう。

水田の方から上戸方面を写す

つまり、田尻川・美女川・江合川の存在と「ソネ」の地名、若狭・高城の地名や熊野神社が、かつては付近に川や沼の点在する地であったことを裏付けている。そのため「舟であがる処」も必要になり、そこに「上戸」の地名が付けられた。

   

稲作が普及し、やがて新田開発が広く始まると沼や湿地はどんどん水田に変えられていき、水の道が整えられ、陸路が完備してくると、舟で交通していたことは忘れられていった。しかし、「上戸」の地名だけは残ったのである。

80代の人は、昔は大きな沼があり舟からあがる処なので「あがっぱ」と言ったと聞いていると話した。子供の頃から洪水が多く、家の周りの田んぼが、大水で真っ白になったり、縁側の下を大水が流れて行くのを見ていたこともあるという。

また、苗代だった地を求めて土盛りをして宅地にしたことから地震には弱く、以前畑にしていた地を休耕したら、茅が生えて茂るようになったそうだ。これは古い時代の沼や湿地の様子或いは植生に戻りつつあることを伝えているのであろう。目の前の様子が違うように見えても、人の都合で変えられただけなのであり、自然はかつての水が流れていた道を決して忘れてはいない。こうした地では、大雨や豪雨の際には要注意である。

畑を休耕すると茅が茂るようになった

舟は、日々の暮らしに欠かせない交通手段であり、人だけでなく文化や言葉、民俗も運んできた。そのため、アイヌ語地名と和語地名が隣り合わせに残されているのである。「上戸」の地は、古くからそうした人々の歴史や暮らしの始点や到着点だったのである。

お話しする人

太宰幸子

日本地名研究所理事、宮城県地名研究会会長、東北アイヌ語地名研究会会長

 

このコラムは、弊社発行の「工務店ミュージアム 学びのコラム(2024年10月号)」に掲載したものです。